持続可能な国づくりの会 ビジョン
経済と福祉を相互促進関係にする社会システム
「調和と協力、公平と自由によって、安全・安心で幸福な社会を築くこと」は、単なる理想論ではない、と私たちは考えています。それは、理論的にも実際的にも実現可能であり、また社会そのものを持続可能にするために必要不可欠だからです。
経済と福祉は矛盾しない
いうまでもありませんが、「安全・安心で幸福な社会」、別のことばでいうと高度な「福祉社会」を築くためには、経済・財政の裏づけが必要です。そしてしばしば印象で思い込まれているのとちがって、経済・財政と福祉は矛盾するものではなく、特に現代では、適切な社会システムを築くことができればむしろ相互促進的になる、と私たちは考えています。
高度な福祉のためには豊かな財政的裏づけが必要であり、そのためには豊かな税収が必要であり、そのためには豊かな経済が必要です。豊かな経済は豊かな税収を生み出し、豊かな税収は高度な福祉を可能にします。ここまでは、誰も異論はないでしょう。
問題は、福祉は基本的に一つの国の中で営まれ、経済は国際競争の中で営まれているということです。そこで、「〔労働者の待遇や保障を含む広い意味での〕福祉に金を使いすぎると経済の国際競争力が落ちる」、「経済と福祉はトレード・オフ―一つのものを進めると他のものが後退してしまう―の関係にある」というよく見られる考えが出てくるのですが、私たちは北欧とりわけスウェーデンの実例と財政学的な視点を学ぶことによって、それは悲しむべき誤解であったことに気づきました。(図1参照)
知識社会を促進する福祉
確かに経済の重心が重化学・機械工業とその製品の輸出にあった時代には、できるだけ人間への投資を節約することが利益率を向上させ、国際競争力につながるという面もありました。
しかし、二〇世紀末から二一世紀にかけてすでに、生産と経済の比重は明らかに重化学・機械工業から知識産業(例えばIT、バイオ、医療・薬品、環境、デザイン、アミューズメント、それらにかかわるアイデア・発明・特許、等々)に移っています。もちろん重化学・機械工業製品がまったくなくなることはありえないでしょうが、しかし、それが主たる大きな利益を生み出す時代は終わり、知識集約型商品こそが高い利益を生み出す時代になっているのではないでしょうか。
そうした知識集約型産業が生産と経済の中心的な役割を担う時代では、個人の創造的な知的能力が産業を発展させうるかどうかの決定的な決め手になります。
そして、教育が充実していなければ知的能力の開発はできず、そもそも健康が維持されていなければ個人の能力が高まることはありえず、もちろん個人が不安をかかえているようでは安心して能力開発に取り組むことはできません。国民全体の知的創造力の水準を高めるためには、十分な財政的な対処によって、教育サービスや医療サービスや福祉サービスを充実させることが必須なのです。
さらにやや先取りしていうと、そうした社会サービスのベースはまず自然環境ですから、自然環境も保全・改善されなければ身心の健康を維持・促進できず、もし健康でなければ個人の能力の開発はありえず、したがって知識社会がうまくめぐらないのです。
ウェルフェア国家(二〇世紀型の福祉国家)からワークフェア国家(二一世紀型の福祉国家)へ
また、知識資本の蓄積には巨大な資金と長期の時間が必要であり、それは社会の共同事業(公共事業)として財政で実施するほかないと思われます。つまり教育サービス、その基盤になる医療・福祉、より基本になる環境の保全・回復も社会の共同事業として行わねばなりません。
実際、それらを財政で十分にまかなってきた国々が経済的に豊かになっていますし(北欧に関する様々な国際ランキングがそれを示しています)、これからも豊かさを持続できると予想されます。
高度な社会サービス・福祉を行ない、多数の高度な創造的知識を有する国民をもつ国は、豊かな雇用と内需および高い国際競争力の二つを兼ね備えた持続可能な豊かな社会になっており、これからもなり続けるでしょう。それは福祉が国民の家計の豊かさを支え、また福祉自体が福祉産業を生み出して雇用と内需を安定させ、高度な知識産業の生み出す商品が国内外に新しい豊かな市場を生み出すからです。
そういう意味で、これからは、社会の敗者の面倒をみる福祉ではなく、知識資本へ投資することによって新しい仕事と雇用および経済を発展させるような福祉・社会サービスが必須になると思われます。これまでの弱者救済型福祉国家(ウェルフェア国家)から、単に倫理の問題としてだけではなく、高度な知識社会を形成する仕事(ワーク)を可能にし新たな雇用を生み出すためにも福祉を提供するという意味で「人材と高度な仕事創出型福祉国家(ワークフェア国家)」を築く必要がある、と私たちは考えます。(図2参照)
そうした社会は、協力原理を基本としながら、経済の活性化につながるかぎりは競争原理も取り入れるというかたちになるでしょう(北欧はすでにそうなっているようです)。
ワークフェア国家とは=新しい福祉国家の事例
人は安全と安心がなければ、あえてチャレンジすることはひじょうに困難です。チャレンジがあってはじめて科学技術の革新が可能になり、生産性が向上し全体としての経済もまた持続的に成長することができます。その結果、成長していく知識集約型産業へと産業構造を転換していくことができるのです。
例えば北欧諸国とりわけスウェーデンでは、失業しても安心して次の職務にチャレンジできるような具体的施策が展開されています。それはいわばトランポリンのように一度転落しても再び跳躍できるよう安全網を強く張り替えるということです。失業を例にとると、失業保険による手厚い「所得保障」と就労支援である「活動保障」のセットで安心が提供され、再びチャレンジすることができるのです。
経済と環境のバランスを実現する社会システム
ワークフェア国家と市場経済
経済に関するかぎり、ここ一〇〇年の実験によって統制経済の非効率性、市場経済の効率性はもはや疑う余地はないと思われますから、ワークフェア国家も経済システムについては市場経済を否定することはありません。しかし、市場が暴走して社会を脅かす場合には、民主主義的な合意に基づいた市場に対するコントロールを行なうのです。
以上おおまかに述べたような「ワークフェア国家」というすぐれた社会システムでは、経済・財政と福祉は矛盾するどころか相互に促進しあうことが、実際的にも理論的にも確実にいえる、と私たちは考えているのです。
「経済と福祉」と同じく「経済と環境はトレード・オフの関係にある」という誤解もよく見られますが、私たちは「経済と環境(と福祉)のバランス」は不可欠でありかつ可能であると考えています。人間(社会)と自然の持続的な調和なしに「安全・安心で幸福な社会」はありえないからです。
二〇世紀半ば過ぎからしだいに明らかになってきた「環境問題」とは、人間と自然のバランス・調和が崩壊しつつあることを示しており、その具体的な内容は、人間活動(とりわけ経済活動、資源とエネルギーの利用)の拡大による「生態系(自然)の劣化」と、その結果としての「人間の生存条件の劣化」および「企業の生産条件の劣化」にほかなりません。
生態系(自然)の劣化
たとえどんなに科学・技術が進歩しても、人間が生物であることに変わりはなく、太陽と植物を基礎にしたエネルギー・システムの中で生きていることにも変わりありません。確かに人間は「生物ピラミッド」の頂点にいるともいえますが、決して忘れてはならないことは、生態系を支える食物連鎖の出発点は植物であり、人間はそうした食物連鎖によって支えられているということです。
野生の動植物が徐々に姿を消して行くことは、同じ生物界の一員である人間にもその危機が忍び寄っていることを示唆しています(図3参照)。
人間の生存条件の劣化
さらに人間は生物の一種である以上、安全な食べ物となってくれる健康な動植物、安全な温度や湿度や気圧、安全な太陽の光、安全な空気や水といった生物としての生存条件が悪化すると、生き延びること自体が困難になります。すなわち、生命レベルで持続不可能になってしまうのです。
そしてきわめて憂うべきことに、人間の生存条件はまちがいなく劣化の一途をたどっています(図4参照)。
経済活動の担い手は人間ですから、生態系が劣化し、人間の生存条件が劣化し、生存が持続不可能になっても、経済だけは持続可能であるということはありえません。どこかで聞いた言い回しを借りれば、「環境なくして人間なし。人間なくして経済なし」なのです。
その点をはっきり認識すれば、「経済と環境はトレード・オフの関係にある」という言い方が、いかに目先のことしか考えていない短絡的な発想であるかもわかってきます。長い目で―といってもわずかここ二、三〇年のことだけでも―見ると、「経済と環境のバランスを実現する社会システム」が絶対に不可欠であることは明らかだと思われます。
企業の生産条件の劣化
さらに重要なポイントは、経済そのものの点から見ても、生態系の劣化は企業の生産条件の劣化を招き、経済活動を持続不可能にしていくということです。環境とトレード・オフの関係にあるような経済システムをそのままにしておけば、やがてその経済システムそのものも機能しなくなることは、シミュレーションをすれば火を見るよりも明らかだというべきでしょう(図5参照)。
特に留意しておかなければならないことは、何かを生産するためにはその条件がすべて整っている必要があるということです。どれか一つ条件が欠けても生産は困難、というよりほとんど不可能になるでしょう。つまり「生産は最も少ない条件に縛られる」のです。生態系の劣化による生産条件の劣化は、企業にとっても許容限度を超えつつあることはまちがいありません(図6参照)。
そういう意味で、いまや単にいわゆる「環境派の市民」にとってだけでなく経済界自体にとっても、従来のシステムとは根本的に異なった「経済と環境のバランスを実現する社会システム」が絶対に必要不可欠な時機に到っているといってまちがいないでしょう。
環境問題の基本的原因と解決の方向
これまで述べてきた環境問題の基本的原因は、資源の大量使用―大量生産―大量販売(ここまでは企業による)と大量消費(これは主に国民・市民による)、およびその結果としての大量廃棄(これは両者による)にある、と私たちは捉えています。それは、近代の先進諸国が豊かさを目的として経済活動を拡大してきたことの、予想していなかった結果つまり「目的外の結果」の蓄積だと言えるでしょう。
こうした見解は、言うまでもなく、私たち独自の意見ではありません。
代表的には、すでに一九七二年、財界人、学者、政治家などによる組織「ローマ・クラブ」によって公刊された、『成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート』(邦訳はダイヤモンド社)で広く世界に問題提起されています。
また、スウェーデン政府はさらに早く六〇年代前半から環境問題の深刻さを認識しており、一九六八年に国連に国連初の環境会議の開催を提案し、一九七二年には首都ストックホルムで第一回国連人間環境会議が開催されています。
『成長の限界』では、主要な結論として三点があげられています。
⑴ 世界人口、工業化、汚染、食糧生産、および資源の使用の成長率が不変のまま続くなら、来るべき一〇〇年以内に地球上での成長は限界点に到達するであろう。もっとも起こる見込みの強い結末は人口と工業力のかなり突然の、制御不能な減少であろう。
⑵ こうした成長の趨勢を変更し、将来長期にわたって持続可能な生態学的ならびに経済的な安定性を打ち立てることは可能である。この全般的な均衡状態は、地球上のすべての人の基本的必要が満たされ、すべての人が個人としての人間的な能力を実現する平等な機会をもつように設計しうるであろう。
⑶ もし世界中の人々が第一の結末ではなくて第二の結末にいたるために努力することを決意するならば、その達成のために行動を開始するのが早ければ早いほど、それに成功する機会は大きいであろう。
こうした危機の現状と「エコロジカルに持続可能な社会」構築の必要性については、第一回の国連人間環境会議以来重ねられてきた環境に関する国際会議の公式見解(いわば「建前」)としては「共通認識」になっています。
しかし残念なことに、人類社会全体の実際の行動に現われた「本音」としては、危機感も不十分であり、その結果、第二の結末への努力はなされてはいても、きわめて不十分だと思われます。
日本に関していえば、環境問題に関する日本政府の「建前」を端的に示しているのは「環境基本計画」の前文(平成一二年、環境庁の省への格上げ前)の次のような個所です。
「第2の環境の危機は、産業公害に象徴される第1の環境の危機と同様に、20世紀の人間社会に福祉と成長をもたらした大量生産、大量消費、大量廃棄を前提とした生産と消費の構造に根ざしています。……第2の危機は、私たちの社会のあり方そのものを変えない限り解決できない……国際社会は、1992年にリオ・デ・ジャネイロで地球サミット(略)を開催し、「持続可能な開発」を国際的な合意とし……わが国の「環境基本法」の制定……これにより、わが国は、持続可能な社会の構築に向けて大きく一歩を踏み出した……地球という閉鎖された系の中において無限ということはありません。 世紀を迎えるにあたって、私たちの最重要課題は、地球という枠組みの中において、人類の叡智を結集しながら、環境と社会の健全な関係を築き上げ、人類の持続可能な発展の基盤を整え、将来世代にこれを継承していくことです。」(傍点は当会による)
『平成一三年版 環境白書』(環境省になって初、四月小泉内閣の成立後五月付け)に掲載された図「問題群としての地球環境問題」では、誤解の余地がないほど明快に原因―結果の図解がなされています。(図7参照)
驚くべきことに、「環境白書の刊行に当って」には、環境大臣名(当時は川口順子氏)でこう書かれています。「このような環境問題の原因は、私たちの営む社会経済活動に根ざしたものです。……社会経済のあり方を改めていくことが必要です。」
二つとも国の機関である環境庁・環境省の公文書ですから、環境に関する国の公式見解です。つまり、大量生産・大量販売・大量消費・大量廃棄をベースにした近代的な社会経済のあり方は限界に来ていることを、政府も「建前」としてははっきり認めていたのです。
しかしその後の日本政府の「本音」としての社会経済政策は、どこまでも近代的な新自由主義経済学をベースにした市場経済の活性化による「景気の回復」「経済成長」を目指し続けてきたのではないでしょうか。そういう意味では、日本の政策決定に関わる人々の「本音」としての危機認識およびそれに必然的に伴うはずの適切で有効な対応は、致命的といってもいいほど遅れていたと言わざるをえません(政権交代以降の方向転換が強く望まれます)。
すなわち、環境問題の解決には、資源枯渇、土壌劣化・砂漠化、食糧危機、災害増加、海面上昇、大気汚染、酸性雨といった個々の現象への対応だけでなく、「経済活動の拡大」をどうコントロールするかという本質的な議論が必要なのです。
とはいっても私たちの考えでは、資源・エネルギー消費の成長を前提にした経済活動の拡大をコントロールすることは経済成長(GDPの成長)を全面的に止めることではありません。技術の変革と特に社会システムの変革によって、資源とエネルギーの消費を生態系の許容する範囲に抑えながら、適正規模の経済成長をしていくことによって「エコロジカルに持続可能な社会」を構築することが可能だ、と私たちは考えています。
現代の経済は、二〇世紀型のひたすらなる規模拡大から二一世紀型の規模適正化への転換期にある、と捉えているのです。
経済と福祉と環境の相互促進
すでに述べたように、これからは経済にとっても環境とのバランスは絶対に不可欠・必須です。そしてそれだけでなく、安全な環境を維持・持続させることは人間の幸福な生活つまり福祉にとっても言うまでもなく不可欠です。
さらに重要なポイントは、ただ不可欠というだけでなく、長い目で見れば、よい環境の維持や劣化した環境の回復は福祉を促進し、人間が安全な環境で安心して生活できることは新しい豊かなアイデアが生まれることを促進し、その結果、知識産業が促進され、さらにその結果、安定した持続的な経済の発展が促進されるということです。
環境と経済の持続的発展
重化学・機械工業と比べて知識産業は資源やエネルギーの消費量がかなり少ないので、社会全体の生産の比重を知識産業に移行することで、資源・エネルギーの軽減と経済の発展を並行して行なうことが可能になるでしょう。実際、最近のスウェーデンでは、経済の成長は必然的にエネルギーの消費量やCO2等の温室効果ガスの排出量の増加を伴うという関係(カップリング)を切り離すこと(デカップリング)に成功しています。(図8参照)
巧みな社会システムがあれば、これまでの常識とは異なり、環境の回復や維持と経済の成長もトレード・オフではなくなる、なくすることが理論的にも実際的にも可能だと断言してまちがいないでしょう。
さらに世界全体に環境の持続が必須であることが自覚されるようになるにつれ、環境の維持や改善に貢献する技術や商品への需要が高まってきます(現にかなり高まっています)。あえて産業界で語られている言葉を借用すれば「環境はカネになる」時代に、すでになってきているのです。
環境への配慮が、経済にとって当面どちらかというとマイナスに感じられる経費的な意味で不可欠であるだけでなく、経済そのものを促進するようになっていることは、すでに現実だといってまちがいないでしょう。
公共事業によるグリーン・ニューディール
さらに加えて、私たちはこれまでの公共事業に代えて、環境・国土の保全のための公共事業が必要だと考えています。
地方では農業と特に林業の衰退のために農地・山林が荒廃し、その結果日本の国土全体が荒廃の危機に瀕していることは、地方の現場を知っている人にはあまりにも明白な事実です。
しかし、国土が持続不可能になっても経済のみは持続的な成長が可能であるなどということはありえません。国土の持続は国の持続の大前提です。
そういう意味で、日本の農業・林業をグローバルな市場原理・経済原理に任せておくことは、国土の持続性という点からいってもはや容認できない、と私たちは考えています。
また、食糧の自給能力という安全保障の観点からも、農林および水産業が市場原理・経済原理に任された結果、仕事・産業として成り立たなくなってしまうことを放置することはできません。
そういう意味で、環境・国土保全と食糧の安全保障のための農林水産業に関わる新しい持続的な公共事業(=グリーン・ニューディール)が必要であり、かつそうした持続的な公共事業は安定した雇用を創出し、安定した雇用は安定した消費を生み出し、安定した消費は安定した国内需要を生み出すであろうことは、シミュレーションをすればあまりにも明白なことです。安定した国内需要が、安定した国内経済を支える決定的な要素であることも言うまでもありません。(図9参照)
私たちの結論
先に「すぐれた社会システムでは、経済・財政と福祉は矛盾するどころか相互に促進しあうことが、実際的にも理論的にも確実にいえる」と述べましたが、同じように「すぐれた社会システムでは、経済と環境は矛盾するどころか相互に促進しあうことが、実際的にも理論的にも確実にいえる」というのが、私たちの結論です。もっとも典型的にはスウェーデンの「緑の福祉国家」という構想とその実行の状況が、確実な実例です。
まとめていえば、すぐれた社会システムを創り出すことによって、経済と福祉と環境はトレード・オフではないどころか相互促進関係にすることができる、と私たちは考えます。
ほんとうの民主主義=人間尊重社会を実現する政府とは
信頼できる透明な政府の必要性
経済と福祉と環境を相互促進関係にするすぐれた社会システムは、ぜひ必要なものであり、かつ可能でもあるとして、では「どういう政府であればそれを実現できるのか」という問題が出てきます。
個々人の善意と努力の積み重ねだけでそうした社会システムがいつか自然にできることは、残念ながら想定できない、と私たちは考えます。私たち市民の代表である政府が、はっきりとした理念とビジョンを掲げ、市民と一体になってそうした個々人の努力を結集し、それを目指して目的意識的・計画的に創り上げていくほかにないのではないでしょうか。
ところがさらにきわめて残念なことに、かつてはもちろん政権交代後の日本政府のかたちでもそれを期待することはできない、と私たちは考えます。
それは、現政府にもすでに述べてきたような理念やビジョンがないこと、さらにもしあったとしても、市民の多くの中に政府と一体となって目的を目指すことをきわめて難しくしている深い政治不信があることによります。日本であまりに長く続いてきた政・官・財の癒着、利権政治のために、良識的な市民の多くに政治そのものが汚いもの、手を触れないほうがいいものだという政治アレルギーがあるように思われます(政権交代後若干改善されてはいますが)。
そうした状況を乗り越え、国を挙げて、つまり政府と国民が一体になって新しい社会システムを構築するには、まず国民にとって根本的に「信頼できる透明な政府」を構築することが必要・不可欠です。(図10参照)
そして、国際的な調査と評価によれば、相当程度に「信頼できる透明な政府」を創り上げている国はあるのです(オーストリア、スウェーデンその他)。
そのような実例に学びながら、私たちはおおまかに以下のような条件を備えることができれば、相当程度「信頼できる透明な政府」を創り出すことも、そうした政府の主導によって私たちの望むような新しい社会システムを構築することも可能だと考えています。
信頼できる透明な政府の条件
まず、政府の規模については、これまでしばしば見られた「大きな政府か小さな政府か」という二者択一の議論そのものが不適切であると考えます。民主主義国家における政府は国民の福祉のために存在する以上、規模は福祉を実現するのに適正かどうかがポイントであって、大きいか小さいかは問題ではありません。
したがって、これから経済と福祉と環境の相互促進関係を構築するための機関として、「国民の民主的参加による適正規模の政府」かどうかが問われるべきでしょう。
そうした政府は、政党ごとの比例代表制選挙による一院制議会によって編成されることが望まれます。
まず、比例代表制選挙では、あくまでも各政党の政策が国民全体の利益になるかどうかに焦点が当たり、議員個人と特定地域や特定集団との利権による癒着の構造が生まれることが避けやすいからです。
また、現代の急速に変化する状況にあって迅速な意思決定をするためには、二院制は非効率的であり、一院制のほうが適切だと思われるからです。
現段階では当面、地域のニーズを汲み上げるために小選挙区選出の議員も最小限存在してよいと考えられますが、地域の経済・福祉・環境に関わる現場のニーズを十分に汲み上げるには、むしろ財源と権限の十分な移譲が行なわれた地方分権が必要だと考えます(とはいっても、現在議論されている「道州制」は首都への中央集権から道州庁所在地への中央集権になるだけということが予想されるので、基本的に賛成できません)。
加えて、国会議員が特権階級化すること、私利私欲による「立身出世」の対象にならないためには、待遇の適正化が必要であると思われます(具体的には、個人の生活給としては大手企業の管理職なみ、その他の純粋な政治活動・政策研究費は目的に応じて十分に)。
さらに言うまでもなく、「透明な政府」を創り出すためには、現在のものよりもはるかに徹底した「情報公開制度」と「オンブズマン制度」(中立的第三者機関による監視制度)が整備される必要があります。市民と第三者の目に対して「透明」な政府であれば、汚職・腐敗は最小限となるでしょう(不完全な人間のやることですからゼロにすることは困難だとしても)。
かつて「あらゆる権力は腐敗する」という格言もありましたが、上記のような条件を調えれば、腐敗最小限の権力・「信頼できる透明な政府」を構築することは不可能ではない、と私たちは考えます。(図11参照)
そして幸いにしてすでに代議制民主主義社会になっている私たちの国では、国民の合意さえあれば、新しい政府のかたちを創ることも、新しい政府の主導によって新しい社会システムを構築することも、大きな混乱や犠牲なしに可能なのです。
認識と意欲と倫理性
認識と意欲と倫理性の必要・不可欠性
しかし言うまでもなく、それなりの理由があって長く続いてきた社会システムを新しいシステムに変えるには大変な労力・エネルギーが必要です。実は私たち日本人にとって今もっとも問題なのは、そこまでの労力を費やす国民的な意欲・気力を湧き上がらせることができるかどうか、ということかもしれません。
経済と福祉と環境とのバランスは可能である、それどころか相互促進関係にできるということを認識するだけでも相当な労力が必要です。「面倒くさい、そこまで知りたいとは思わない」という人も多いかもしれません。
現代の私たちが直面している問題とその解決策を認識することにも「知りたいという意欲」が必要ですが、さらには認識した結果として実際に社会システムを変えるための行動を起こすには、何よりも「変えたいという意欲」すなわち心のエネルギーが必要です。
さらに、どう変えたらいいかを認識でき、変えたいという意欲も湧いてきたとしても、その自分がいいと思ったことを実現したいという意欲・意思つまり善意がいつの間にか悪を生み出してしまうという悲惨な結果にならないためにはそれに加えて自己反省力、自己浄化力としての倫理性の成長が個人としても社会集団としても促進される必要がある、と私たちは考えています。
近代、私たちは、倫理性という問題意識のない変革・革命がすばらしい理念・善意に出発しながら大変な悪を生み出すという歴史的経験を、あまりにも繰り返し体験してきたのではないでしょうか。
かつてのことだけでなくこれからも、変革を志す個々人に自己反省力・自浄能力がなければ、どんなにすぐれた社会システムを構築しようとしても、そのプロセスですでに歪みが生じ、ある程度構築できた場合にもそのことによっては償いきれないほどの悲惨な犠牲を生み出すことになるでしょう。
つながりへの気づき
私たちが新しい社会システムに関する認識と意欲と倫理性を自分のものにするための鍵は、理念のところでも述べた「つながりへの気づき」だと思われます。
人間、と一般的に述べるよりも具体的なこの私という人間は、無数のつながりのおかげで私であることができます。
改めて言うまでもないようですが、大地(地球)、空・空気、水、時に食べ物になり、また酸素を供給してくれる植物、あるものは食べ物になってくれ、そうでないものも同じ一つの地球生態系の中にある他の動物……といった人間以外の自然と、いい・肯定的なつながりが続いてはじめて、人間生活も続くことができるのです。
また私という人間は、親、その親、その先祖といういのちのつながりのおかげで、私として生まれ生きることができています。私は、社会を形成する他の無数の人々とのつながりによって生活すなわち社会生活を営むことができています。
自然とのいいつながり、他の人とのいいつながりが、私という人間が人間としてよく生きることを可能にしてくれているということは、誰にでも当てはまる普遍的な事実であって特定の思想でもイデオロギーでも宗教でもない、と思います。
そうした普遍的な事実への深い気づきが、今大きく歪んでしまっている自然と人間のつながりのシステム、人間同士のつながりのシステムを、本来のいいつながりに変えたいという意欲・気力を生み出すのではないでしょうか。単なる語呂合わせではなく、本来のいいつながりを再創造したいという気持ちを「本気」というのだと思います。
標語風に言えば、「つながってこそいのち」なのです。そこに全人類、どころか全生命、生命と非生命が織り成す全生態系に当てはまる普遍的な倫理の根拠がある、と私たちは考えます。(図12参照)
そして、ですから、未来に向かっては次世代に「つなげてこそいのち」なのです。いのちをつなげること・次世代への配慮は、人間としての絶対の義務といえるでしょう。
最後に、冒頭に掲げた言葉をもう一度繰りかえせば、「私たちの目標は、自然と調和し、人間が相互に和を保ち協力しあい、公平で自由な、持続的に安全で安心して生きることのできるほんとうの民主主義=人間尊重社会を創ることです」。
そのことに本気になって取り組む人々が増えれば、当然ながらその実現は可能であると私たちは信じています。
おわりに
持続可能な国づくりの会 事務局長 松原弘和
この「理念とビジョン」の試案は、本会の理念とビジョン作成特別委員会において、何度となく率直で徹底した討議を重ねた上で最終的合意に至り、文章化したものです。また、作成のプロセスでは助言者の方々から多大な示唆をいただき、ほとんど監修といっていいほどに関わっていただきました。とはいっても、もちろん最終的責任は特別委員会にあります(実際の文章化に際しての文責は委員の一人である岡野守也)。
以下、特別委員の名前をあげ、貢献と責任を明確にし、また助言者の方々のお名前も併記して、感謝の意を表したいと思います。
特別委員 岡野守也 岡野千世子 小澤徳太郎 中島利行 松原弘和 松原友美
三谷真介 森中定治
助言・協力者 大井 玄(元国立環境研究所所長、東京大学名誉教授)
笠松和市(徳島県上勝町長)
神野直彦(関西学院大学人間福祉学部教授、元東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授)
西岡秀三(国立環境研究所理事、IPCC第二作業部会副議長)
藤井 威(元スウェーデン特命全権大使、みずほコーポレート銀行顧問)